うきうき感想帳

友人に書くつもりで書くと書きやすいらしい。BLが多いかもしれないし、多くないかもしれない。

20240118(20240117)

日記です。タイトルは日付

チラ裏(インターネット死語)

 

 

卒業制作の展示の撤収をしてきた。

展示台を自作して「こんな中途半端なサイズの展示台を後輩が欲しがった時、後輩も自作しないといけないのかと思うと嫌すぎる……」となったので学科に「これ寄付できないっすか……」と提案したら寄付できました。綺麗だと受け取ってもらえるらしい。手伝ってくれた人がすごい精度にこだわってくれたおかげだと思った。感謝だ

 

卒業制作は、結局SNSとかでパブサしても誰も話題にあげていなかったし、賞の箸にも棒にも引っ掛からなかったことが悔しかった。個人を特定されたくないのでテーマも制作物も明言する気は無いが、スタート地点から教授陣にウケる作品にはならないだろうと思っていたので予定調和といった感じか。

「評価はいらない」という気持ちで始めて終わったはずなのに、設営が終わった時には「賞やっぱり欲しいな」と思ってしまって、けっこうキツかった。

『めちゃめちゃ良いわけでは無いが、少なくとも悪くは無い』という出来だっただろうと思う。あわよくばという気持ちが捨てきれない程度には、自分なりに納得がいくものになったのだと思う。

強いていうなら、展示の時にちゃんとキャプションをつければよかった……

 

自分よりも身近な人間の方がよっぽど頑張ってるじゃん、と感じるのをやめられない。

今日、学生として最後の登校日で、目を閉じてやすりの番号当てをするクイズをしてきた(?)けれど、なんか、優勝できて嬉しかった。

すごく嬉しかったしすごく楽しかった。

またやりたい。

絶対ここを見てないと思うけど、一緒に参加してくれた人や、レギュレーションを考えて運営してくれた人、オーディエンスで盛り上げていてくれた人 写真を撮ってくれた人 みんなありがとう。

 

けど、私は制作でやすりを使ってきた経験は少なくて、400番の荒さを基準にして覚えて、それを起点に考える、相対的に何番、というやり方で、なんというんですか。

こはちらしの裏ですからね。

その後、必修の授業でやすりを使う課題(そういうものがあるよ)の優秀作品を見たら、私の作品、当たり前ですがなくて。

当時の作品を思い返すと、よくこんなん出したなと。

で、一緒に参加してくれた人とか、参加検討してくれた人の多くが優秀作品になってて。

共通一次でなら点を取れるけど小論文では取れないみたいな

AとBの情報を得ていればCが導き出されるはずなのにできないみたいな

 

優勝したのは事実で、楽しかった時間も事実で、嬉しかったのも、みんなと一緒にいたいと思えたのも全部事実なのに、「でも私の作品が評価されることはないな」みたいな気持ちが

そこから転じて、「私より経験を積んだ人間がやすり当てで負けているの納得いかなくないか? 私で良いのか?(よいです)」となっている。

でもこういうのって多くの人があると思うしかないですね

私だって、書き始めて一日の人間が完璧な小説書いてきたらめちゃくちゃ嫉妬する

私はデザイナーになるのでは?

生きて行けるのだろうか。会社に友人はいないのに。

友人に会いに大学に行っていたら卒業の運びとなってしまった。

さみしいね

インターネットで会いたいよ 叶うなら現実でも

 

青々しい大学四年生の記憶をちゃんと置いておきたいと思って書いた。

卒業制作の撤収(個人作業)をして友達と話して、卒業制作の撤収(学年全体に関わる設営関連の作業。取りまとめてくれた人ありがとう)をして友達と話して、TRPGの準備をして、知り合いの撤収作業をしに木を運んだり、嘘の鳴き声を言う嘘の存在(今のインターネットにはそう言うのが流行っていました。カ〜キカキカキカキ! 日記を描くカキねぇ! みたいなやつ)で爆笑したりして、やすり当てで優勝して、一緒に中華を食べて、TRPGのシナリオイントロドンをやった。今これを書いている。

 

記憶を鉱石みたいに物質として存在させることができたらよかったのに……と思った

きっと悪用とかもたくさんされそうだけれど、今のこの気持ちを忘れたくなさすぎる

メモという文化によって人間の記憶力が失われたように、そういう記憶を固形にする技術ができたら、どんどん記憶を失ってしまうのかも

ならこのブログ程度の、曖昧な文字でいいのかもしれない

 

 

いやでもしんみりする、卒業というものは

 

ほんとうのほんとうにおわり(インターネット度が高めの結び)